詩人 野間明子

詩「硝子」「フクシマへの道」「世界のまんなかの一本の柳」。
詩集『耳として』(二〇一三年、漉林書房)所収。




硝子


まだ
硝子を磨いている
広大な一面の硝子のまんなかに
埃とヤニのかたまったような濁った色の小さな染み
そのむこうに広がる空はあれほど目路を限らず青いのに
私は小さな濁った染みから目をそらせなくて
息を吐きかけてこすり
唾を吐きかけてこすっている

もしかしたら本当に硝子の反対側の面かもしれない
どうすれば反対側へ行けるだろうか
長い梯子を引きずるように抱え透明な硝子に沿って
右へ右へ歩いてみても
それから今度は溜息をつきながら左へ左へ
左へ左へと
なにも終わらずなにも始まらない
一面の硝子の果てには着かない
しかたがないので
もう一度硝子のこちら側から試してみる

ああ
むこうに広がる空はあれほど目路を限らず青いのに

私は染みの上に額をつけ
染みの両側に指紋をつけ
染みの下に鼻の脂を唇の皺をつけて
もしかしたらこのまままっすぐ反対側へ行けるかもしれない
どこにも回り道はないのかもしれない
どうしても気になる埃とヤニのかたまりを拭い去って
一点の曇りもない一面の青空を見晴らすために

私は梯子を立て直し大きく弾みをつけて
頭からまっすぐ硝子のなかへ
透明のなかへ突っ込み突き破り突き抜けて反対側へ
硝子のむこうへ
広がる目路を限らず青い空の一面の空のまんなかへ



フクシマへの道


原発を逃れて
広島へ帰って来いと言うのだ
余震の止まない朧夜に
電話をかけてきて言うのだ

三号機はありゃあプルサーマルよ
じゃのに新聞もテレビもいっこも言わんじゃろ
隠すゆうことは何か起きよる
ほんまにヤバいことになりよる

帰ってきんさい被曝せんうちに
放射能の心配要らない
ヒロシマへ

一九四五年八月七日
十五歳の少年は広島へ向かった
昨日朝早く広島へ出掛けたきり戻らない姉を捜して
薄い少年の靴底の下
街は硫黄の臭いする焼木杭に埋もれて平らぎ
七つの川面は無数の尻に埋もれて平らぎ
見晴らせば遠く地平まで揺らめく陽炎に
幾人ものよく似た少年がさ迷っていた

熱線にも爆風にも遭わなかった少年達
秋風に吹かれる頃髪が抜け発熱し洗面器いっぱいレバーのような血を吐いて
じきに死ぬる者
死なず生きる者
生きつづけた者は六十五年後
筋線維腫とかいう耳慣れない新生物を
腕や脚に飼い馴らして病室のベッドに座っている

ヒバクシャという言葉が死語にならないうちに
新たな内部被曝の一年目が
福島の海岸から始まろうとしている
ゆっくりと確実に汚染される私達
日本人であることを身内に彫りつけるように
畑も 牝牛も 網いっぱい躍る魚 迸る清水も
一個の原子爆弾を強烈に憶えているあの街の方が
桃の咲きこぼれるなだらかな里山よりも今や
放射能から遠いというのだ

姉にとうとう会えないまま
夕凪のヒロシマを出発した私達
六十五年かけてどこをどう歩いたのだろう
立ち止まらないために
いくつ石を積んだか
踏みにじった花はなにか
どう変わる風を聞き分けて
何に肩を竦め
何を言い何を黙ってきたか
春なのに誰もいないフクシマに辿り着くために

親愛なるヒロシマの従兄よ
残念だが広島には帰れない
誰もフクシマから歩き出すしかないのだ
今日のこの道を歩き通した果てに
めぐみ満てる島をいつかは見出すために



世界のまんなかの一本の柳


世界のまんなかに
一本の柳があります

幹は一抱えに余るのですが
枝垂れる枝々はもつれた髪より細く
世界のどんな溜息にも揺らがずにいられない
揺らめく枝先の細魚のかたちした緑葉は
小刻みに顫えて世界に鼓動を伝えつづける
そんな一本の

世界は言います
あなたは自由だ
あなたはなにものにも囚われない
あなたは誰にも責めを負わない
あなたの心には鍵がない
あなたに軛を科す人はどこにもいないだろう

柳は喜んで大童の頭を振りたてます
風が生れて波紋のように世界の隅々まで広がります
雀たちは大騒ぎしながらもつれた髪の束を啄んで
星屑を空へ払い落とします
黄ばみかけた葉がくるくる舞ってほど近い水辺に浮かぶと
波が立って川を渡り対岸へ打ち寄せていくのでした

わたしの住まいのまんまえに
一本の柳はあります
わたしは艶のいい猫といっしょに柳の根方で暮らしています
わたしと柳のまわりを丈高い叢が囲っています
叢のむこうをもっと丈高い葦が
水辺から護るように囲っています
ここは世界のまんなかなのです

世界は言います
 ( ほら ハクセキレイが舞い降りた )
あなたは自由だ
 ( まるでどこからかポトリと産み落とされたようにね )
あなたはなにものにも囚われない
 ( わたしも この猫も同じだ )
あなたは誰にも責めを負わない
 ( いきなり 不意にこの世界にいるのだ )
あなたの心には鍵がない
 ( 見上げると一本の柳があったので
 花穂が風にのって撒かれるあたりに寝床を敷きはじめる )
あなたに軛を科す人はどこにもいないだろう
 ( 夜はもつれた枝々の間からやわらかく滲み出して
  無防備な眠りにまだ慣れないわたしたちを抱きしめてくれた )
ハクセキレイはちん、ちんと歩いて ああ飛び立ってしまった

いつからか
川の対岸に鉄の楔が育ちはじめました
珍しいものに眺めていると
楔は高く柳よりも高く
鋭く鉤よりも鋭く
あれはなんの契約の徴なのだろう
誰と誰との約束だろうか
世界がはげしく身悶えても
戦ぎだにしない鉄の塔は
どんな不吉の兆だろうか
わたしの住まいを囲う叢に
杙が立ち赤いコーンが立ち縄が張り巡らされて
ショベルカーが三台並んだのは

今日
とうとう完成した楔は空にきつく打ち込まれ陽を突き刺してしまったので
今宵はおびただしい血の色が川面を染めます

ああ
いたい

それは柳の聲 世界の聲だったでしょうか

翌日
柳は伐られて倒れました
わたしの目の前で回転する刃物を腹に受けて
最後は樹皮を捻じ切られびりびりと空気を轟かせて折れました
わたしの耳元で
引っ掻くようなささくれを空へ向けて
黄味を帯びた乳色の裸の肌
まっさらな匂うような年輪
見てはならないものではなかったのですか

ここはもう世界のまんなかではないのですね
改まった契約に書かれているのですね
わたしは追放されるでしょう
わたしの罪状はなんでしょうか
わたしがここにいること
この
世界のまんなかでひっそり暮らしてきたことです
世界に許されて生きてきたわたしは
捻じ切られた世界を脇に丸めて
世界の外へ出て行くしかありません
艶のよかった猫も段々と薄汚れていくでしょう

世界のまんなかに
一本の柳がありました
風と波と星とが生れるところ
人も猫もポトリと落ちてくるところ
わたしは世界から許されて
柳の根方で
だれからも軛を科されることなく生きていました
柳の薄緑の花穂が風にのって
わたしの鍵のない心に一面に慰めのように降ったのでした

                       ( 荒川堀切橋の袂にて )


著者略歴
野間明子(のま・はるこ)
一九六二年 広島県呉市生まれ
一九七九年 詩集『風化する前に』(私家版)
一九九〇年 詩集『玻璃』(漉林書房)
二〇一三年 詩集『耳として』(同上)

掲載されている詩の著作権は、詩の作者に属します。

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