高畑耕治『死と生の交わり』


かけがえのないもの

「 すべてのひとを同じように愛する 」
 嘘ではないのか。
 すべてのひとを何ものにもかえることのできぬ生命、失ってしまえばとりかえしのつかない生命と、感じてしまえば・・・わたしを殺すしかない。

すべてのひとは愛せない。
 絶えず 生まれ 死に 離れ 流れているから。

偶然に同じ瞬間生きているだけでは、そばにいても離れていても、他者を本当に大切な失ってしまえばとりかえしのつかないひとだとは感じられない。それが本当なのか。

わたしではないひとを、どれほどかけがえのないひとだと思い込み感じていても、そのひとが死んでいくとき、わたしは死なない。
 失われてしまえば二度ととりもどせない、そう感じてしまうことを”かけがえのない”というなら、本当にかけがえのない他者などいないのか。

自分ではないひとりのひとが死んでしまったとき、失われてしまったとき、自分さえこわれてしまう、そのようなひととひと。
 ”異常悲哀反応”
 それは弱さ、他者と自分が違う生命であることを感じようとせず受けとめることのできない弱さ、ひとりであることができない弱さだろうか。
 それとも強さ、他者と自分が違う生命であることを感じようとしたからこそ知りつくそうとしたからこそこわされてしまう強さ、感じつくしたうえで知りつくしたうえで自らこわれることをのぞむ強さだろうか。

死んでいく他者の生命をみつめるとき、わたしの死をみつめずにはいられない。そのときはじめて、わたしの生命はかけがえのないものと感じられる。
 他者の死にとりかこまれているから、かけがえのないわたしの生命を感じることができる。

かけがえのないわたしの生命も、他者にとって、ひとつの他者の生命にすぎない。

わたしの死も、他者にとって、ひとりの他者の死にすぎない。

絶えず 生まれ 死に 離れ 流れている

他者の生命は、かけがえのないもの。


「 かけがえのないもの 」( 了 )

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