詩人 中村不二夫

詩集『コラール』から

やさしい手 妻の母に


いつ終わるともしれぬ 激しい喉の渇きと嘔吐
だれもその人を苦しみから助ける術を知らずにいた
「 あなた方を襲った試練で 耐えられないものはない* 」
本当に人間はこんなに無力であってよいのか
そんな問いが 時に人を革命にまで走らせてしまう
それは まるで一つの夢を信じ闘う姿そのものだった
その人は回復を信じ S病院内科病棟に入院した
( 何でもやってみなければ結果は分からない )

その人の胸の痛みを取り 呼吸を楽にした手があった
その人の背中をさすり続け 額の汗を拭った手があった
蜜柑の皮の袋を一つ一つ剥くいてくれる手があった
「 もうずいぶん胸の痛みは治まったわ…… 」
もう一度 宇宙を包み込む深い呼吸がしたい
その人の願いを聞き入れ 腹式呼吸を教えた手があった
熱帯魚の水槽を見に行くため 車椅子を押す手があった
その人は休む間もなく 愛する人に手紙を書き続けた
毎日 その人のためにポストへ手紙を届ける手があった
( どんなことにも全力投球の人生だったね )
そんなことの繰り返しが 何より嬉しかった日
いつもそこにあった やさしい手のことを思う

その数分前 最期のやさしい手が招き入れられた
その人は主の祈りの後 じっと目を閉じたまま
やさしい手の人の拳を何倍もの力で握り返した
( 人間は最後まで 決してあきらめてはいけない )
人は両腕に余るすべての物を置いて新しい人になる
その人の周りには いくつものやさしい手が集まった
看護士が足早に主治医を呼びに立ち去った
さようなら 彼方のやさしい手の人たちよ
いくつものやさしい手が 旗のように揺れている

      * コリントの信徒への手紙一 10・13


K病院救急病棟 夏・その手の記憶


安息日 突然妻が胸に手を当て路面に伏した
ぼくは地球の裏側へと必死に助けを求めた
驚くほどの早さで その手はそこにやってきた
はじめに大きな手が二本 そしてまた別の手が
代わる代わる 妻の心臓を圧し続けている
傍らでは心電図が乱れた脈を拾っている
まだ空を貫く少しの力は残っているのか
妻の脈拍数は半分近くに落ちてしまっている
その後K病院救急病棟へと運ばれていった

ぼくは主治医の最初の病状報告を待っていた
せわしなく救急病棟のドアが開閉する
救急隊は再び別の命を運んで入ってきた
運ばれてきたのは初老の男性で
昼食後に突然脳梗塞で意識を失ったという
その手は命を運び任務を終えると姿を消した


主治医から妻の二度目の経過報告があった
まもなく上階のICUにベッドを移し
万一に備え 心臓外科医を待機させているという
ぼくは その手のことを何も知らずに生きてきた
その手はみんなが寝静まったこんな嵐の夜にも
目的地に向け必死に車を飛ばしていたのだ
( なんども患者の受入れを搬入先の病院に断られて )
それは決して人として当たり前のことではない
妻もまた その手の無償の行為によって救われたのだ

その夜ぼくは ICUで一睡もできずにいた
いつだって 二人で一から始めた物語だった
それがどこで終わろうと悔いることはないのだと
この日妻は ショッピングセンターの前で倒れた
まるで何かの復讐にあったかのように忽然と
( それまでぼくたちは元気に水槽を眺めていた )
妻は本当には助かるかどうか分からなかった
どこから急にそんな強い力が湧いてきたのか
心臓外科医はペースメーカーを片付けはじめ
妻の心電図は徐々に正常の形を刻み始めていた
三日後 ぼくは窓口で妻の退院手続きを済ませた

それから ぼくは街中でなんどもその手を見かけた
そのたび 彼らは美しい音だけを残して消えた
いつものように ぼくもまた日常の縁に針を落とす
夏の終わり ぼくたちは水槽のある店の前にいた
妻の目の中に 数匹の光る赤い魚の影があった
家に帰ったら 彼らのためにガラスの鉢を用意し
小さな命をそこで思い切り泳がせてみよう
やがてはみんなひとつの家に還っていくのだから
おそらくもっとも美しい人の手によって
最期にもういちど 本当に人が運ばれる時まで


青春譜 大関貴ノ花追悼


その手は すべての痛みを知っていた
目の前 いつも大きく強いものが立ちはだかり
あなたは天に向かっていっぱいに塩を撒くと
小さな体で まっすぐそれに立ち向かっていった
粉々に砕け散った肉の破片 骨の悲鳴
自らの手でそれを拾い あなたは花道を帰った
一九七×年冬 K大学構内に機動隊突入
アメリカ 中国 ベトナム ラオス……
最終電車 何とも言えない人間の臭気を嗅ぎ
ぼくは一人マルクスを読み ヘーゲルを学んだ
それから疲れた体を折り畳み 冷たい布団に潜った
その時 テレビの画面にいつもあなたはいた
歯をくいしばり あなたの体は地を這っていた

その手は すべての意味を明かしていた
世の中のだれもが 未来に耳を貸さず頑迷だった
一つの壁の突破は つぎの壁への入り口にすぎす
大関在位 史上最多五〇場所の記録保持者
あなたは勝ち越すのがやっとの軽量大関だった
一九七×年卒業 仲間たちはみんな故郷へと帰った
そこには ただ一人の勝者もなく 影ばかりが並び
イルカの「なごり雪」を最後にみんなで歌った
ぼくは あれほど嫌っていた東京に一人出た
もう何もなくなって見た空の先 薄い雲が浮かび
あなたは 若くはない体をなおも横転させていた
そこにぼくは 土俵という神のいる場所を見た
あなたは強くはなかった ぼくたちのように
ぼくは初めて 壊れていく者の美学を知った

二〇〇五年五月三〇日午後 口腔底ガンで死去
あなたは 土俵の下の幽界へとひっそり消えた
その手は すべての真実を語っていた
巷を踊る 名大関・名親方の称号が虚しい
あの時はみんな燃えた 夏の光りのように
ヒロシマやナガサキを背中に 反核を叫び
列になって おそれず強い者に向かっていった
したたかな権力を前に 砕け散った肉と精神
すべてが終わったと一人が言い それにみんなが従う
一九七×年夏 ぼくは東京で初めて詩を書いた
そこでもあなたは 悲壮な決意で塩を撒いていた
不服従 抵抗精神 失地回復 権力闘争……
深夜のテレビの中 あなたはいつも輝いていた


著者 中村不二夫(なかむら ふじお)
1950年横浜市生まれ。1985年から全国詩誌『詩と思想』(土曜美術社出版販売)の編集委員会に参画、全国の詩人による詩運動の中心メンバーとして活動。 日本詩人クラブでも理事長、会長をつとめ、詩の普及、詩人の交流に尽力。日本現代詩人会、日本文藝家協会、日本キリスト教詩人会、中島敦の会(横浜)、暮鳥会(水戸)に所属、詩誌「WHO’S」、詩誌「ERA」で精力的に執筆する。
詩集:
『ベース・ランニング』(1979年、詩学社)、『ダッグ・アウト』(1984年、詩学社)、『Mets』21世紀詩人叢書・第T期4 (1990年、土曜美術社、第1回日本詩人クラブ新人賞受賞)、『People』(1995年、火箭の会)、『使徒』(2001年、土曜美術社出版販売)、『コラール』21世紀詩人叢書・第U期28 (2007年、同上、第33回地球賞受賞)。
詩論集:
『<彼岸>の詩学』(1992年、有精堂出版)、『詩のプライオリティ』(1993年、土曜美術社出版販売)、『山村暮鳥―聖職者詩人』1995年、有精堂出版。改題再版2006年、沖積舎)、『戦後サークル詩の系譜』(2003年、知加書房)、『現代詩展望T―1994〜97―』(1998年、詩画工房)、『現代詩展望U―世界詩の創造と条件―』(2000年、同上)、『現代詩展望V―詩と詩人の紹介―』(2002年、同上)、『現代詩展望W―反戦詩の方法―』(2005年、同上)、『現代詩展望X―詩的言語の生成―』(2007年、同上)、『現代詩展望Y―詩界展望―』(2010年、同上)。

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