詩人 神谷恵

『小詩集』(未刊)から

晩鐘


星の輝きよりも
闇の深さを教えて下さい
理由(わけ)を探すまえに
ただ一途に愛することを教えて下さい
旅装を解いた言葉と思惟と 景と音の国に
ほどよい眠りと
目覚めのための希望の朝をお与え下さい
くずおれたたましいを癒し
疲れ 躓いた身をささえ
ふたたびよどみない光に立ち上がらせて下さい
道の途上で迷う友に
まっすぐに前を向いて
明日のひとひを歩ませて下さい


芽吹き


本を捨てた
爪を揃えた
髪を剃った
原稿を焼いた
遺書を書いた

ボストンバッグにありったけの日々を詰めた
雨のように頬に降る雫と一緒に母も入れた
父も祖父母も詰め込んで
ぼくは君と電車に乗った

 今日は暖かいのね……
 春だものね……
 寒い日もあるのよね……
 桜も咲くのよね……
 学校いつからかしら……
 海凪いでるかしら……

黙り込むぼくの傍らを鳩が飛ぶ
抜け落ちた羽の先ほどの重ささえもない風が
君の髪を揺らす
 ちゃんと帰るよね
君の言葉の枝先には
再創造されたぼく自身が芽吹いている

イエスが並んでくださったときのように
ぼくは微笑んで頷き 君と肩を並べ
病院内の礼拝堂で頭(こうべ)を垂れた


利き手はどっち


夫婦を手にたとえるなら?
と 唐突に問われたとき
「 私は左手で妻は右手です 」
ぼくは咄嗟にそう応えていた
うちは逆だな――と誰かが茶々を入れる
右手はだいたいが利き手
やはり右手の方が偉いのですよ
その一言にぼくはひどく傷ついた

あるひとがぽつりと言った
 病気で片手をなくした私は
 利き手などという言葉さえ知りません
 あなた方にはもう一方の手がある
 だから利き手はどっち――
 などと言っておれるのです
なんと哀しい譬えでしょう

男と女 夫と妻
利き手はどっち?
どちらが右手でどちらが左手?
どちらでもいいのだ
先を争う勝ち気な手
寄りかかって甘える手
身体は前に進めない

前を向いているふたつの手は
すれ違うことも仕事 だから
夢が歩きだすことを知っている
でも 必要なとき
片方にそっと添えるもう一方の手
そんなときはとても美しい
どちらもやさしい利き手になる


著者 崎本恵(さきもと めぐみ。ペンネーム:神谷恵)
地方紙などに詩や小説を発表し続けている。個人文芸誌『糾(あざな)う』を発行。
著書 詩集『てがみ』(本多企画、1993年)、『採人点景(さいとてんけい)』(1995年、私家版)、小説『家郷』(新風舎、2002年)など。

掲載されている詩の著作権は、詩の作者に属します。

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