高畑耕治詩集『愛(かな)


みみずの生き方

 釣り好きの友人に誘われ川に行きました。土手はサイクリングロードで、下流まで水に添寝しています。太陽が照りつける曲線の鮮やかな色に目を奪われたとき、サンダル履きの足もとからずっと向こうまで続いている白い斑点に気づきました。

 鳩のフンかなと思ったら、みみずの死骸なのです。みみずの日干しなのです。ぞっとしました。踏みつけたくないので、白い粉を吹きだしたぺちゃんこの無数の死骸のあいだをぬって歩きました。

 田んぼの土を耕すなり、小鳥のひなに食べられるなり、魚の餌になるなり、みみずにはみみずなりの、もっとまっとうな生き方もあったろうに。なめくじやかえるなら日干しも赦せるけれど、魚の日干しは美しいけれど、きみたちに日干しは似合わないよ。鳩や猫や犬が車にはねられどぶ川に沈んでいる姿より無残だ。悲しい気持にすらなれないよ。全滅じゃないか。

 どうして土から土手に這いだしたの?
 向こうの草むらまで数メートルを這いつくそうとして力つきたの?
 自転車か、ひとに、一匹ずつ踏みつぶされたの?
 爆弾にやられた?
 餓え死んだの?

 おしこめていたにがい心象がにじみだしました。爆弾に焼き焦がされたひとたち、飢えに苦しみ死んでいったひとたちの重なりあう声が、まなざしが、熱い陽射しに浮かび、わたしをうちます。

 釣りの餌にみみずはかかせません。みずみずしく光るみみずを釣り針に通すたびに思いだします。夏休み、田舎のおばあちゃんの家裏の小川で釣りをしたこと。土を掘りかえしみみずを集めて餌にしたこと。ぬるぬる光りくねる姿がこわくて、さわれず泣いたこと。
 無言で釣り針に通され、?の姿にされてしまうきみの気持がわからなかった。でもきみは嫌われ者なのに、日陰者なのにどうして日干しに?
 みみずのことはもう忘れようと、ビールを飲み釣り糸をたれました。
 大切なのは考えないこと。水の流れみたいに時間に身をゆだねることだね、そのとき魚の呼吸とあって、
と楽しげに話す友人の言葉が耳を通りぬけ、
 魚さん、かかっておくれ、かかったら放してあげる、決して食べやしないよ、だからかかっておくれ、
と妄念たらたらに、もう戦争も飢餓もみみずのことも忘れてしまったと一心に釣り糸を睨んでいますと、

 川のせせらぎがしゃべりだしたのです。あんまり暑くて頭がぼわっとふやけたせいでしょうか、少し酔いがまわったのでしょうか。水と光が話しかけてきます。小石にはね、ひるがえり、重なりあい弾けあう水の声が響いてきます。苦しみも悲しみも通りこした涼しい声で、みみずたちが歌っているのです。

 これがぼくたちの生きざま
 みみずの生きざま
 みみずは死んで水になる
 ぴちゃぴちゃはねて光ります

 釣り針の?のみみずはもう魚に食べられたろうか? いっしょに歌っているのだろうか? なぜか涙が流れました。友人に気づかれぬよう日焼けした腕でぬぐった汗と涙の結晶は、みみずいろに光りました。友人の口もとからこぼれおちるビールもまた、みみずいろに輝いているのをみつめながら、みみずたちの歌声、澄みきった響きに流されてゆきました。

 友人と別れた帰り道、住宅街のアスファルト道で日干したちに再会しました。待っていてくれたの? 道沿いの雑木林の木の葉たちが光り、風にゆれ、歌っています。
 そのとき、光に透かされた木の葉たちのうすい肌から、葉脈が血管のように浮かびあがり、
 あっ、あんなところにもみみずたち。
 木の葉でみみずたちがみずみずしくおどっています。風にさらさらこころよい声で歌っています。

 これがぼくたちの生きざま
 みみずの生きざま
 みみずは死んだら木のはっぱ
 さやさや風に光ります

 アスファルトにちりばめられた白い日干し、光を吸いこみ、透明に輝きはじめたからだも、風に舞いあがり、

 みみずは死んでなんになろ
 みみずはみんな星になろ
 みんなみんな星になろ
 みんなみんな光ります

 みみずたちだけの歌声ではなかったのです。
 あのひとたちの声が聞こえました。戦争も飢えもこえたあのひとたちの声がまぶしく光りました。わたしの汗まみれのこころに響きました。

 数か月たった今、みみずたちが消えた土手も街路も凍りつき、木の葉たちが散った枝先は空に突きささって痛々しいけれど、わたしのこころは寒くありません。
 見上げれば空いちめんの星の歌声がふりそそいでくるのですから。



「 みみずの生き方 」( 了 )

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