高畑耕治『死と生の交わり』


死と生の交わり

(2)


交わり響きあい ひとりであることの感受性をふかめながら、
感じることは こわれてしまうことだとおののきながら、それでも
ひとりであり 響こうとねがう。
ひとりであり 交わり響きあおうとねがう。けれど
交わりを 美しいと感じているのではなかった。
交わりが生みだす 共鳴や不協和音が 美しいから、
美しく感じられるから、
ひとりあり交わることに 交わりひとりあることに 耐えていたのではなかった。
美しいから ただ美しいから 交わりに意味がある、
ただ美しいと感じられることだけが
響きあうことの「 意味 」、
「 意味 」をこえたもの 「 意味 」を不必要にするもの
「 意味 」をもとめるむなしさをのみこむ充溢、
そう感じられるから、
ひとりあり交わることに 交わりひとりあることに 耐えていたのではなかった。
わたしには 交わりが 響きあう音が 美しく感じられない。けれど
わたしがむなしいために 充溢するものが醜く感じられるから
響きがない 意味がないなどとは いわない。
ひとりであるわたしが醜いから どのような交わりをも美しいと感じられない、
美しく響かない、
交わり響きあうなかで ひとりであるわたしが かわっていく、
美しくなくとも 必要とされるものとして感じられてくる、
そうねがわないといえば嘘になる。けれど、それだから
そのねがいのために、
ひとりあり交わることに 交わりひとりあることに 耐えていたのではなかった。

わたしは響きあいたい わたしをささえる沈黙と。
もう響くことのない沈黙と響きあいたいから、
わたしは ひとりあることに 耐えたい。
響きあうことはできないけれど、沈黙は
ひとりあるわたしと 交わってはくれず 響きあってはくれないけれど、
沈黙のために、失われた響き 失われたひとりひとりのために、
わたしは響いていたい。
ひとりあることに 耐えたい。
交わることのできぬ沈黙にさらされ ふるえおののく
思いだけが、
沈黙をうかびあがらせてくれる、そう信じたかった。
ひとりあるわたしが消えれば 交わりのなかに消えされば
沈黙は 失われたひとりひとりは 忘れさられてしまうから、
交わりあうものたちは 響きあうものたちは みまもる沈黙に
耳をすまさない、そのような交わりより
隔てられ響きあうことのできぬ沈黙が 大切に感じられたから、
そのような交わりの響きにはない 美しさが感じられたから、
沈黙のために、その美しさを感じるために、醜くても
ひとり ふるえていたいと ねがった。

交わりのなかにいることを 忘れているのではない。
美しくあろうと醜くあろうと響きあっていることを 忘れているのではない。
ひとりであることなんてできない。ひとりであろうとねがえばねがうほど、
交わりが かけがえのないものとして感じられてくる。
二度とない交わりの 響きあいの かけがえのなさを
見失ってしまえば、感じられなくなるなら、
ひとりであることにかけがえのなさなど
感じられはしない。けれど
かけがえのない交わりのなかで 響きあいのなかで
沈黙を見失いたくなかった。
今の この 交わりしか 響きしかない、美しくても醜くても
このなかで感受性をふかめていくことしかできない、
この瞬間だけを かけがえのない響きとすることしかできない、
そう言いきかせても、
沈黙にひかれるわたしを どうすることもできない。

沈黙にひかれ
沈黙をおそれ
ふるえながら 耐えていたい。そして

わたしも 消えていきたい、交わりのない沈黙のなかへ。
交わり響きあうことはないけれど、もう ひとりでは ない。
失われたひとりひとりと交わることは やはりできないけれど、
もう 隔たりは ない。
だれも ひとりでは ない。
わたしも 帰っていく、生まれでた沈黙のなかへ。
もう だれとも 交わることは 響きあうことは できないけれど、
もう ひとりふるえることは ない。
隔てられていたひとりひとりをもとめて ひとりふるえることは ない。
ひとつの響きとして 出会える。ひとつの音になれる。
失われたひとりひとりと、
生まれくるひとりひとりと、ひとつになれる。
だれもが 生まれ 帰っていく、
ただひとつの響き
沈黙として。



「 死と生の交わり (2) 」( 了 )

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