詩人 神谷恵

詩集『採人点景』から


わたしは生まれてから今日まで
四億回もの息をしてきた
妻も同じくらいだろうか
息をするのが癖になった
そんなはずもないが
息を確認する行為は
確かに癖になったような気がする

祖父は
わたしが朝目覚めてまもなく事切れた
弱まっていく祖父の呼吸を
わたしは何度も何度も確かめた
そのうちに確認しようもないほど
細い息がもれ
静かな一生が終わった

祖母はわたしが目覚めると
すでに息をしていなかった
誰にも気づかれないように
ひっそりと生きることをやめていた

父はわたしが目覚めると
意識がなくなっていた
それから毎日
朝一番の仕事は
父が生きているかどうかの確認だった
そしてわたしが再び目覚めると
母はたくさんの血を吐いて倒れていた

わたしは朝
目を覚ますとまず妻の息を確かめる
数億回の息の中のたった一回でいい
わたしよりも確実に多く
そして豊かであってほしいと切に願いながら

 ―主よ またひとつ
 ひとときの朝を生きられました  


ほたる


かえりそびれた
いのちの灯
枯れた草の上に独りのほたる
なぜこんなにも寒い夜に
こんなにも淡くひかり輝いて
藍の藪に なぜ
たった独り浮かんでいるの

こんな夜は
片目の蝮がじっと闇にひそんで
哀れなほたるのまねをする
だからそのあたたかい
白い指は隠したままで
そっと通り過ぎなさい
虫たちの海の羽根は
灯台のあかい灯を引き寄せながら
薄緑色にさざ波だって
死んだ祖母の声で
そっとささやきかけてくる

でも、人の子がお降りになった日もこんな夜
淡いほたるのようにかがやいて
羊飼いの冷えた手の平でかがやいて
降り積もる雪の野でかがやいて
わたしのこころでかがやいて
天に昇られた日もこんな夜

それなら
片目の蝮が闇に潜んで
いつわりの灯をともすときも
そう、あなたはじっと耐えなさい
かなしみにも旬がある
だから
季節はずれのほたる
見えなくなるまで
やさしく抱いてあげなさい


希い


見えなくなった肉の目で
日、一日を病む―わたしは
植物のように意識を病む―父は
行き倒れの旅人のように
身とこころを病む―母は

妻を娶ったとき
  父さんのことも
  母さんの看病も
  あなたの目のことも
  何も心配しないで

祈り歌のような
美しいことばを聞いた

イサクがリベカを娶った日のように
はじめて得た慰めは
二人で生きるということ
  健やかなときも病むときも
  どんなときも慰めを与えあい
狂った日時計の影に棲み続けたこころに
老神父の歌がしみわたる

妻が病んだ日
彼女のために
わたしはわたしの胸を刺し
あのお方の手と足に打付けた釘を
泣きながら抜いては捨てにいく


著者 崎本恵(さきもと めぐみ。ペンネーム: 神谷恵 )
地方紙などに詩や小説を発表し続けている。個人文芸誌『糾(あざな)う』を発行。
著書 詩集『てがみ』(本多企画、1993年)、『採人点景(さいとてんけい)』(1995年、私家版)、小説『家郷』(新風舎、2002年)など。

掲載されている詩の著作権は、詩の作者に属します。

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