詩人 神谷恵

詩集『てがみ』(本多企画、一九九三年)から

生の良心


人並み
それは誰のこと?
人並み
それは人間の条件?
大多数に近い能力?
それとも健康な肉体?
人並み
それは正常?
生きるための権利?

わたしは目が見えません
でもこの大地に立っています
わたしは耳が聞こえません
でもこの道を歩いています
わたしの手と足は動きません
でも笑いかけることができます
寝たきりのぼけ老人と言われても
昔はわたしも元気でした

こんなわたしたちも人並みです
生きている者
あなたと同じように
わたしたちも生まれてきたのです
そしてちからのかぎり生き続けています
わたしたちの生
それはこの世に生きるすべての者が
おなじ時代を生き抜くために
特別に贈られた
この世界の良心かも知れません

行き交うひとが振り返り
そして手を差し延べ
やがてそれが
振り返るほど大仰なもの
でなくなる日まで
わたしたちの生は
闘い続けています


病室の海 霊安室から


おばあちゃん おばあちゃん
誰かが呼び掛けたようでぼくはあたりをみまわした
そうか 誰もくるはずがない か

霊安室(ぼく)は今朝から独りの老婆を抱いている
この仏さまは新しい家が建った日から雨の日も雪の日もお
にぎり一個をわたされ外に追い出され 夜だけ家に入れて
もらえるというくらしだった 息子も嫁も孫たちでさえ
新しい家が汚れると言って ばあちゃんを追い出した あ
げくのはてが肺炎 付き添ってきたのは救急車の隊員だけ
だった

  仏さまになったばあちゃん ぼくの手足が冷たく
  てごめんよ それにたった独りにさせて・・・
  誰か来ると良いのにね ああ ぼくのことはかま
  わないでいいんだよ そうさ いつまでだってば
  あちゃんを泊めてやるさ 心配はいらないよきっ
  と誰かがたずねてくる 心配はいらない いまま
  でだって遅れたことくらいあるさ 車の渋滞なん
  て珍しくないんだから

チビで不器用な それにうるさいほどおせっかいで泣き虫
でぽっかぽっかにあったかい新米看護婦が仏さまになった
ばあちゃんの家に電話した

  逝ったの知ってるんですかって? わかってるわ
  よ 忙しいのにそんなことくらいでいちいち電話
  しないでください えっ 遺体をどうするのかっ
  て? 好きにしていいわよ うるさいわね あな
  たが泣くことないじゃない そんなにほしけりゃ
  あなたにあげるわよ ああもう わかったわよ
  取りに行けばいいんでしょ 取りに行けば

新米看護婦は ぼくの膝の上でねむっているばあちゃんの
髪を梳きながら 人間さまの業をかみしめながら哭いてい


  君のせいじゃないさ 誰にだって重荷のひとつや
  ふたつくらいはあるものさ このばあちゃんは
  きっと 息子や孫や嫁たちの業を独りで引き受け
  たんだ 君が泣いてくれた だからばあちゃんは
  もう立派な仏さまだ

その日の夕方 葬儀社の若者二人がぼくの膝の上からばあ
ちゃんを降ろしていった くわばらくわばら 飯の種飯の種
新しい洋風の家に仏間は似合わないんだとさ 説得力も
なにもない言葉の余韻がぼくの部屋を満たしている あの
ばあちゃんの家族はとうとう一度もこの病院に姿を見せ
なかったけど ばあちゃんはこれからどこへ還ればいいの
だろう よかったらいつでも遊びにおいでよ ばあちゃん
ぼくの部屋は病室の海に浮かぶ艀みたいなものだけど
降り損ねたたくさんのひとたちでいつも埋まっている ほら
そう言っている間に 男の子になる筈だった小さな小さな
仏さまがまた遊びにやってきた


てがみ6 神様の石


泣きたいときは
きっと空を見上げればいいのさ
光り輝く幾億もの星があって
数限りないいのちがある
それでも神様は
きみのことだけをよばわれる

きみを産んでくれた母さんと父さん
きみの痛む足を運ぶために
おみこしを作ってくれたともだち
うたいながら天の言葉をかたりあった
懐かしい笑顔の面々
彼らのこころの中で
神様はきみのことだけをよばわれる

きみが座っている椅子も
きみが纏っている服も
きみが食べているお米でさえ
だれが作ってくれたのかをきみは知らない
そんなふうに
きみが泣いたことも
きみが作りあげてきたこころのことも
険しすぎたたくさんの道のことも
いつの日かだれも知らずに
あたりまえのように
暮らすだろう

それでもいい
きみもぼくも
ひとはだれもいつか死んでいく
死んだひとの石の上で
きみもぼくも産まれてきた
生きることはだれかの生の上に礎を築くこと
ぼくらの死がその礎石をまた堅固にする

神様は幾億のいのちの中に
きみだけをよばわれる
よばわれて産まれてきた
またふたたびよばわれるまで
きみは生きて 生きて
歩き続けなければならない
神様はありのままのきみを
きみ自身をかけがえのない
たったひとつの石
と されたのだから


茜色のバス停にて

名残陽を引きこむほどの暮れの影を包み込み
青と白の色をゆらして終のバスが出る

  父さん
  もうゆっくりとおやすみ
  四年半通ったあのバスに
  ぼくは今夜からもう乗ることがない
  父さんが待ち続けてくれた部屋
  あの懐かしい染みだらけの壁
  父さんが居なくなった病室に
  ぼくはもう通わない
  だからもう待たなくてもいいんだ
  そう だからゆっくりとおやすみ

  ヒジキを乗せた舟が沈んで
  家族みんなで泳ぎ回りながら泣き笑いした海が
  今はもう養殖の筏や杭だらけになった
  父さんが牛を引いて登った山の畑は
  人の手に渡ってしまって
  今年には立派なみかん団地になるそうだ
  父さんのカニューレから漏れる息の音が
  おねえちゃんの笛の音みたいだと言った子供が
  早いものでもう小学生だし
  点滴の副作用で全身が崩れてしまい
  看護婦でさえ怖がって逃げ回った夏もあった
  窓の外には紫陽花が奇麗に咲いていたっけ

  そうそう 父さんが大好きだったからと言って
  母さんが経管食の中に焼酎を入れて
  病院中大騒ぎになったこともあった
  なにもかも
  ついいましがたのようだ
  長かったね父さん
  こんなに傷だらけになっても
  一度も目覚めてくれなかった父さん
  痛かったよね
  ごめんよ
  ごめんよ父さん

病院に向かう終のバスがたち停まり
いつものようにドアがひらいても
ぼくはもう乗りこむこともない
父さんのいないあの病室
今夜からだれが眠るのだろう
さようなら 父さん
あの茜色の空の上で
ゆっくりと
ゆっくりとおやすみ

                  一九九一年一二月二三日


著者 崎本恵(さきもと めぐみ。ペンネーム: 神谷恵 )
地方紙などに詩や小説を発表し続けている。個人文芸誌『糾(あざな)う』を発行。
著書 詩集『てがみ』(本多企画、1993年)、『採人点景(さいとてんけい)』(1995年、私家版)、小説『家郷』(新風舎、2002年)など。

掲載されている詩の著作権は、詩の作者に属します。

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