バラク・オバマ氏が第四十四代のアメリカ合衆国大統領に就任した日、吉川千穂はこんなことを呟いている。「日々の生活に追われ、見えない明日がある。食べてゆくこと、生きてゆくことで精一杯で、夢は現実の小さな願望へと収縮する。―中略― 人は本当に一生夢を見られるだろうか。年を取り、追憶の割合が明日より大きくなる。私は夢と希望を失ったまま止まっている。可能性? わからない。その言葉の意味がわからない。無限階段を一段一段上る。それだけ……」。
世界が変わるかもしれないというとき、吉川は苦悶の底で喘いでいた。このひとは本質的に私と同じ怨嗟の中にいる。そう感じた私はといえば、同じ日にこんなことを日記に書いている。「昨夜は一睡もできず。生きていることが辛い。空が回った―」。私は吉川のことがとても好きになった。目指している文学のジャンルは異なってはいたが、共に詩に惹かれ(いや憑かれてと言ったがいいか)ていた。吉川の研究する詩人ネリー・ザックスと私が心酔していた思想家シモーヌ・ヴェイユとは似ているようでかなり異なっている。だが、根底に流れる苦悩と絶対者への問いとはやはり同じものだったと思う。
その吉川千穂が、今回本を出版した。T再生、Uハイエナ、V移ろう季節。三章で構成された『再生』という詩集である。
すべてが崩れ落ちたあの日から
ぼくは再び生きる道を探った
一度死にかけたぼくは
生きることを二度学ぶ
そろりそろりと歩いては
弱い雨風に怯え震え
優しい光を受けて
安堵のため息をつく
ぼくはそんなにも弱かった
崩れ落ちた何もかもを
もう一度信じることから始めた
いのちは生かされた
ぼくの再生への道のりは
傷が癒えるのに似て
ゆっくりと音もなく作られていった
初冬の柔らかな光に包まれ
今ここに在る
振り返るあの崩壊の日が温かい
(「再生」)
あの呟きとこの詩を読み比べてほしい。吉川が詩集を発表した意図がはっきりと読み取れるはずである。彼女になにがあったのかは察して戴くしかないがしかし、彼女の苦悩と作品を結びつけることにはあまり意味はない。要は、今目の前に提示されたこの詩集がなにを語るのかということだ。
変革のとき、アメリカにしても、遅ればせながら日本でも政権交代があり、国の顔が変わった。誰もが信じていた。世界の夜は明けたのだと。ところが、そうはいかないところが人間の性であり哀しさである。
ぼくはまだ忘れない
五月の内乱の少女の死を
つつじが満開に咲き
花びらがひらひらと舞う
いのちが塵よりも軽い世界で
暴力と
消えてゆくいのちを
ぼくは見ていた
貧困の末
正義をうたいながら
からだに爆弾を仕掛け
黒髪の少女は砕け散った
釘とともに飛び散った肉体は
あの内乱の国のつつじだった
ぼくは決して忘れない
そして見届ける
悲劇に結末があるならば
(「不穏」)
こうした惨状の中で、吉川は感じたに違いない。あれほど惹かれたザックスに、私はどれほど近づけただろうか、と。そして彼女は書く。
家畜の群れのように
阿鼻叫喚する世の中から
遠ざかった
私はがらんどうの部屋の中で
ひそやかに息づいている
心がすさみ
囚われ人さながらに
執着と執念のはざまで
右往左往した
苦悶の末
身に着けたものを脱ぎ捨て
裸になった
幾年もかけて
持てるはことばだけになった
名もなき幸福に目を閉じて
それでよいのだときみたちは笑う
手元に光る一粒の輝きの
なんという潔さよ
(「無心」)
ザックスさながらに(ザックスの詩はとにかく難解だが、吉川は意図して平易に、そして短いセンテンスで詩を綴る)、この世界の不条理に、聖なる戦いなどと嘯き、今日も踏み台を探して闊歩する恥を知らぬ輩に吉川は激しい怒りを投げつける。それがハイエナの章である。
ところで、北イラク、トルコとの国境近くにシャニダールという場所がある。この洞窟で六万年前のネアンデルタール人の遺骨が発見された。彼の上半身が複数の花の花粉で覆われていた事実には世界中が驚ろかされた。その同じ場所で四万五千年前の人骨も発見されたがこちらは目の奥の骨がねじれ、片腕が切断されていたという。だがそれは死因ではなく、彼は障害を負ったあと長らく生きていたのではないかと推測されている。花で弔いを受けた六万年前のネアンデルタール人も四万五千年前の彼も、他者の「愛」によって自己の生が成立していたとは考えられないだろうか。こうした久遠の中に存在する相対としての人間の対極に、個としての否定しようのない渇きがある。その渇きに堪えてこそひとは他者の渇きを癒すものとなり、自らも自立した存在者となるのだ。
しかし、何万年経っても、人間は変わっていない。いや、むしろ退化しているようにさえ思えてくる。文明という名と引き替えに、失ったもののなんと大きいことか。
それでも吉川は信じている。ひとのあたたかさや優しさ、つまり愛という言葉を。「再生」の章も、「移ろう季節」の章も、吉川千穂の精一杯の愛で充ち満ちている。
星が瞬いている
孤独のために
チカチカと音もなく
きれいな夜空にひとつ
きみたちを想い―
寂しさはどこからやってくるのだろう
木枯らしが吹くよ
星が揺れ
寂しさがふわりとぼくらにかぶる
決して悲しいのじゃない
言霊の降る夜
沈黙する魚たちのように
目を見張った
それは荘厳で美しい瞬間
ぼくらは痛みを忘れた
胸のつまるような心の痛みを
静かに冴えわたる野原に
夜空を見にきてごらん
星はみなきみたちのために
瞬いているから
孤独のきみたちに代わって
瞬いているから
(「孤独の星」)
この星は、私自身にとって吉川そのものだったように思う。私は何度も彼女に問い、そのたびに彼女は応えてくれた。
ぼくらの悲しみの涙をごらん
一粒一粒光っているよ
これはぼくらの足跡
ぼくらの歩いた受難の軌跡
苦しみを背負って歩いてきた
心に無数の傷跡を抱き
悲しみを背負って歩いてきた
逃れえぬ己の運命を想い
痛みをもって生まれ
悲しみを知って死んでゆく
点々と落とす涙の粒は
生きた証 いのちの記念碑
ぼくらは運命を最後まで生きる
いのちの苦しみを最後まで生きる
自ら絶ち切ることなく
土に還るその日まで
(「涙」)
ひとが生きる。それはイコール問うことだ。問うことをやめたとき、ひとは生の放棄へと向かう。問えば涙が落ちる。魂魄のうちから絞り出される命の水が涙だとすれば、ひとはおのが身をすり減らして問うていることになる。問うて問うて、そうして彼の岸へとわたる。何を見いだすのだろう。何を得るのだろう。なにもない。ならば、もう問うことはすまい――。私がこんな思いに囚われたとき、諦念に押しつぶされそうになったとき、吉川はいつも応えてくれた。それは、吉川自身が、問いと諦念と希いの繰り返しのなかで生きてきたからに他ならない。意識するともせずとも、ひとはみな同じ苦しみを抱え失敗を繰り返して生きている。その代弁者が吉川千穂という詩人である。彼女の言葉に引き寄せられるようにひとびとが集うのは、涸れてしまった、忘れてしまった自己の、原初の言葉を思い出すためなのだ。それはとうに忘れてしまった母性のぬくもり。たとえれば名も知らぬ絶対者の慈眼、「愛」と表現されるなにかへの郷愁なのかもしれない。
最後に、彼女を支え護ってくれるパートナーの存在に触れておきたい。私は彼のことを良く知らない。それでもきっと、優しくてあたたかく、男らしく彼女を包んでくれる素敵なひとなのだろう。こんな微笑ましい詩がある。
コーヒーを入れる
湯気がポコポコ音を立てる
新聞をめくり
パソコンの電源を入れる
君とふたり家族
君とつくった平和がこんなに温かい
ありがたい幸せに祈る心地で
移ろう秋の空を見やる
今日は雨が降らないようだ
もうぱらっと降ったみたいよ
君がうなずく
君が安らう
ふたりひっそりと息をする
あたりまえの朝を抱きしめ―
(「日曜の朝」)
神はエゼキエルの谷間で骸骨と化したひとびとに肉を与えた。筋を与え皮膜を与え、そして息を与えた。はじめの男と女が犯した罪により、息を亡くした存在者たちは、またふたたび息を与えられ立ち上がる。その雛形が男と女、和合し合うふたりの始まりなのだ。吉川はこの瞬間を淡々と表して見せる。平和な日曜の朝の一コマに凝縮し、雨という自然との調和を優しい世界の雛形にして時間を止めてみせる。そこに居るのは、まぎれもない彼女の最愛のひと、夫である。
この世界が無謬なものであるとするならば、誰がそれを教えてくれるだろうと私は思う。いつの時代も、創造主の無謬性を信じてひとは生きてきた。しかし、存在者としての人間の意義を問うとき、私たちは立ち止まって観なければならない。その惨憺たる被造物を。裂かれ、砕かれ、穿たれて傷つけられ、「よし」とするにはあまりにも無惨なその有り様を。そうして混沌とした漆黒の闇を照らすために、綻びを繕うためにひとが創造されたとすれば、ひとは神の言葉を補って綴り、命を与え、言霊を闇に光る灯りとしなければならない。この使命を持って生まれた特別な存在者が詩人と呼ばれるひとたちである。彼らのこころにはこの宇宙と同じだけの容量があり、そして闇があって傷がある。彼らは日々にその傷の手当てをし、自らの言葉によって地が癒されていく時間と空間を「よし」とするのである。
まちがいなくネリー・ザックスはそうだったし、シモーヌ・ヴェイユもそうだった。そして、吉川千穂もまた。
*吉川千穂詩集『再生』 製作協力・北海道新聞社出版局 1575円(税込み)