詩人 吉川千穂

詩「海」は詩集『再生』収録、
詩「ミュンヘン」「新世界」は詩集『烈風』収録。


 海


潮のにおいをかぎながら
まだ見ぬ日本海へ向かって走る
裸の地球
鼓動する地球
荒れ狂う波間にウミネコが舞う
ひとり走る 走る
そして
ぼうぼうと鳴る潮風に抱かれ
安堵する
この海を前に
孤独はなんと温かい

ありったけの孤独を
抱きしめる
ありったけの不安と悲しみを
海鳴りが私を慰める
乳飲み子のように泣いている私
潮風に抱かれ
波のゆりかごにあやされて ―


ミュンヘン


街角の建物の陰に
暗い図書館の奥に
涙がかけられている
嘆きが染みついている
私の叫びが残されている

石造りの建物はよそよそしく
いつまでもひんやり冷たかった
道端で自転車を止め
ショーウィンドウに映る自分を見る
そこに私の面影はなかった

石畳の上を自転車を走らせ
噴水を過ぎ
橋を渡った
私はたったひとり
何と果てしない自由

悲鳴のような風を切る
見知らぬ土地を駆ける
私は自転車をビュンビュンこいで
落日に向かって没していった


重い扉
冷たい椅子
白衣姿の憐れみの目

あなたのために祈らせてください

静かな声を聞きながら
身をよじり歯をくいしばる
ぼろ雑巾をしぼるように溢れる涙

医術に携わる者でさえ最後は神にすがるのか

憤然と首振る私に
治療者は人間の素顔をさらし
そっと寄り添う

医学と信仰
交じり合おうとした二つの極を
私は拒み引き裂いた

救いを求めて街を走った
風が悲鳴をあげている
自転車が石畳に倒れ
はずれた車輪が
どこへともなく転がってゆく


揺れる暗い車のなかで
生ぬるい墨を飲んだ
唇から黒い汁が滴る
二人の医師が名札を見せると
私はまた揺られてゆく

温かみのある女性だと
ぼんやり思った
彼女の深い眼差しを感じながら
書類へサインする
また意識が遠のいてゆく

あなたは昼食を逃したのよ
なまりのある私服の看護師が
ハム入りパンを持ってきた
眠っては覚め、覚めては眠る
私はずっと空腹だった

夢と現
無彩色の世界
ふらりふらりさ迷いながら
ちぎれそうなこころを繋ぎとめた


Lass mich raus, lass mich raus!
鉄格子を叩く女の隣で
私は叫び声を聞きながら
ゆらり、ゆらり外を見やる
窓を伝う雨のように
音もなく溢れる涙

貝のように押し黙る私を
手招くでっぷりとした看護師
外へ一歩
ゆらり、ゆらり
遠ざかる叫び声を
背後に聞きながら

海を渡り、国を忘れた
帰りたい場所を失った
出ては入り、入っては出る
この世とあの世を行き来しながら
ひとは何故生きるのだろうと
ゆらり、ゆらり考えながら

内から外へ
外から内へ
何ものからも自由になって
今、大海へ泳ぎ出る
すると再びあの声がする
Lass mich raus!


       ここから出して、ここから出して!


新世界


固いつぼみが膨らんで
次第に紅く色づくに似て

音もなく創られる細胞
密やかに紡がれる組織

六十兆個の細胞が
死んでは生まれ明滅している

静けさと柔らかな光のなかで
目に見えぬ修復が進みゆく

いびつな縫合の跡を残し
癒え始める私の身体

内なる運動に耳を澄まし
祈るように目をつむる

一陣の風が通り抜けた

私は神秘の残り香を嗅ぎ
そろりそろりと新世界へ出る


著者 吉川千穂(よしかわ ちほ)
1977年、札幌市生まれ。北海道大学文学部卒、同大学院博士課程修了。博士号取得。専門はドイツ文学。
詩集に『烈風』(2012)、『吉川千穂詩集 再生』(2010) がある。
『詩と眞實』、『極光』同人。

詩人・神谷恵さんによる詩集評
「吉川千穂詩集『再生』を読む ―野の花のように生きるあなたへ」


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